こんにちは。皆さんは「絵を学ぶ・描く」ことは人生に必要だと思うでしょうか?
絵は「ただの趣味」「大人の道楽」と思う人もいるかもしれませんが、どうでしょう、、
この記事では「絵を学ぶとなぜ人生が変わるのか?」について3つの理由を紹介していこうと思います。
①世界の見方が根本的に変わる│エメラルドの欠片
一つ目は、「世界を見る目が変わる」ことです。
どういうことかというと、、
例えば仕事に行くときに電車を使ったり車を使ったりしまよね。東京の中央線なんかは通勤ラッシュで、、、すごいものです。
そして職場について仕事に没頭する。
一日がそのように早く過ぎ去っていきます。
特に、大人になるとその時間は早く感じられます。
世界はそのように過酷で忙しい、、。
ですが電車で通勤する過程には、
何の変哲もいない砂利道を通ったり、
ヒマワリの花が咲いて居たり、
森林道を横切ったり、空には雲が浮いているのですがそのようなものに目を止める機会があまりありません。
留っても「ああ、なんか木があるなぁ、グレーの屋根の家が見える。あっ来週は家賃の支払い日だ!」
「雲が浮いている、マシュマロにみえるなぁ、、。とりあえず昼飯はココイチでも行くかぁ~」程度にしか感じません。

ですが絵(デッサンや絵画)を学ぶと、何の変哲もない当たりに見えるものにこそ「深みがある」を発見します。
私も絵を描かなかった昔がそうでしたが
目に映るものをなんとなくただ見ていました。
描かないというのは、
「物をじっくり見る機会がない」ともいえます
見たとしても、、「なんとなく見ている」のです。
それは 見ているようで、本当に見ているとは言えないんですね。
絵を描くとなると、じっくり腰を据えて、日常から離れてものと真剣に向き合う時間が持てます。
描くことでそれが「何故そこに存在しているのか?」ということに迫っていくわけです。
例えて言うと、ニュートンがリンゴをピシャの斜塔から落として、リンゴは何故地面に落ちるのか?
と真剣に向きあったのと同じような修練の時間です。
彼はその後、万有引力の法則を解明し古典力学の基礎を確立、人類歴史に多大な貢献をしました。

つまり林檎に真剣に向き合い、
リンゴが描けるようになるということは、
林檎を自分が本当はどのように見ているのか?
ということを理解することになります。
例えばデッサンでまだそれらしく描けないというのは、どこか林檎を理解していない状態ということになります。
あるYouTubeの「→東大卒の母が息子に言った「深すぎる」“勉強”の本当の意味」という動画で、このようなことを言っていました。
なんで勉強なんかする必要があるのか?
という息子の質問に母が水の入った子コップを指してこのように答えたそうです。↓
他にも詩や文学を学ぶと、その水を見て何を感じたのかを言葉で表現する術がわかります。
絵画は「視覚芸術」です。
絵を学ぶことは「見る」ことを「学ぶ」のです。
そして「水がなぜこの世に存在しているのか?」
を追求することに繋がるのです。
ただ、、、
私たちは「学ぶ」という選択をしない限り、
認識をアップデートすることが出来ません。
人間は学ぶ自由があると同時に学ばない自由もある。
そして私たちは完璧には生きられないが、
自ら「学ぶ」という選択をした時、世界に対する認識は必ずアップグレーしていくといえます。
つまり、物事を深く感じるためには
誰かがフランス料理のフルコースを提供してくれるのをテーブルで待つことではなく、私たち自身の「認識」にかかっているということです。
この認識がアップグレードされるほどに私たちの世界は興味深く、飽きることのいないインスピレーションの源泉であったと気づくようになります。

毎日、空気を当たり前のように吸っているのでその価値が分からないように、我々の周りを「見れば」、エメラルドの欠片が沢山落ちているのです。
②表現することは何故生き甲斐になるのか?│インプットとアウトプットの関係
二番目に絵画を学ぶと、「表現する術」が身に付きます。最近何か「表現」されたでしょうか?
そもそも表現って必要なの?て思いませんか?
表現とは何なんでしょうか?
何かを表現するとは、生きていく上で必要なんでしょうか?
つきつめて考えると幸せな人生というのは表現(アウトプット)から生まれてくるのではと感じます。
人生というのはインプットとアウトプット(表現)の連続で構成されています。
着る、食べる、寝る、住む(衣食住)は、インプットに属します。つまり人間が存在するにおいてインプットは必要条件になってきます。
愛を受ける、お金を儲ける、褒められる、尊敬される、必要とされるこれらもインプットです。
これらがない人生は悲しい人生です。
ところでこれらのインプットは誰かのアウトプットに依存しています。わたしにとってのインプットは、誰かのアウットなのです。
つまり私がアウトプットしないかぎり、他の誰かはインプットをもらえないことになります。

では「表現」とは何でしょうか?
それは同じくアウトプットに属します。
内なるものを外に出すにはエネルギーが必要です。
絵をかくのはめんどい、手を動かすのは億劫だ、今日をも絵の具を準備しないといけない~(笑)なんて思いませんか?
パワーがいるのは絵を描く行為がアウトプット属するからです。一つの絵を完成させるのは大変ですよね。
ここでアウトプットにもの2つスタイルとメリットがあります。
①アウトプットすることで自分を認識することができる
②そのアウトプットが誰かのインプットになりえる
①一自分の理想を形にしたとき人は幸せを感じる
これは自体内でインプットとアウトプットが起こることに似ています。
自分にとって自分の計画通りに動き成果を上げれば達成感がありますよね。またはもっと健康的になりたいと思い、ジムにいって筋トレをしてかっこいい体系になったら嬉しいわけです。感動した景色を風景画としてうまく描けたら誰か見てくれなくても満足感を覚え、自分で自分を「流石!」褒めてあげるでしょう。
この自体内でのアウトプットは直接自分にとってのインプットになるので、自己の成長に繋がります。
②表現によるアウトプットが他者に影響を与える

社会の中でのアウトプットとは「伝える行為」、「サービス商品の販売」、「作品展示と鑑賞」、「映画の製作」、「記事とニュースの発信」、「ボランティア」「料理を提供する」などに言い換えることが出来ます。
表現という言葉を使うと「自分の心や感情を芸術で表わす」のように芸術に特化した行為のように感じてしまいますが、上記の例も結局は心や考えや感情や意思を表に表わしている表現(=表に出現させる)ということができます。つまり社会活動の行為のほとんどはアウトプットの表現になってくるわけです。
このようにみるとインプットとアウトプットの相互作用で、私という存在とその複合体である社会が歯車のように影響し合って回転していくことになります。
表現=絵を描く、彫刻を作る、歌を歌う、詩を書く、バレーをするなどの芸術行為のみにフォーカスがあたってしまうのは、表現というものが「自体内での」インプット、アウトプットにフォーカスがあたりがちな分野であり、「社会内での」インプット、アウトプットとしてフォーカスが当たりやすい「ビジネス」「サービス」という分野に比べると、芸術も社会の中での1ギアとして作用するという認識が薄いことからきていると考えます。
このように考えると、「表現するという行為」が必要か?という問いには、自体内でも社会内でも必要だという答えになります。
芸術は自体内にスポットが当たりがちで、つまり自己満足的なものとしても機能しますが、それが他者のギアの原動力として作用する可能性もあるのです。
例えば歌を歌って人を感動させるとか、絵を描いて人生の深みを哲学的に表現するとか、何の変哲もないレモンを描いて、些細なところに美が存在することを気づかせることもできます。
絵を学ぶとは何か?
先に言及したように絵を描く行為はアウトプットに属します。
ところで、、おいしい林檎を栽培するには農業の技術を学ぶ必要があり、美しい歌を歌うにはボイストレーニングが’必要です。つまりどのような方式でアウトプットすればいいのかを知るには「学ぶ」「研究する」という過程が必要になります。
絵を学ぶ(デッサンを学ぶ、色彩の使いかたを学ぶ)とは、結局この「アウトプットをする術」を学ぶことになります。表現にはこの「修練」や「研究」が必要になってきます。

ところで、、
国が形成されて発展すると国民が誇りたいものは何でしょうか??
それはその国の「文化」です。
文化はその国の結晶であり、国の内面が表に現象化したものになります。
では文化は何を求めるでしょうか?
それはその国の芸術表現であると感じます。
芸術表現とはその国の文化を洗練し鋳造たものなのです。
例えばラテン文化では歌や踊りがその文化ですが、国民的な歌、歌手、踊りというものがあり
それを歌ったり、踊れば国民が意気投合するのを見ました。
この芸術表現は国民にパワーを与え、プラスのエナジーを供給します。
特に音楽は形が無いだけに視覚を介さず市民の心に直接届きます。
逆に、絵画の長所は形あるものとして残ることです。

私が南米に住んでいた時、ラテン諸国には「壁画」がとても多くて驚きました。
国の英雄や音楽家や著名人などを壁画で描いて表現するという文化が定着しているのです。
南米は貧富の格差が激しく、廃墟のような通りがあったり、社会的な傷を感じることが沢山ありましたが、
道を歩いていると美しく鮮やかな花や鳥の絵が描かれていたりして、これらが人々に癒しやパワーを与えているのを感じました。
南米は犯罪も多いですが、人々は情が厚い人が多いです。
③歴史的なコミュニティーの広がり
最後に、絵を学ぶメリット3つ目ですが、 これはコミュニティーの広がりです。
テニスをしているとテニスの知り合いや仲間ができる。英語の勉強をしていると国際的な知り合いができる。スペイン語の勉強をしているとラテン人の知り合いができるようなものです。
これは日本語で言うと「拡張」や「豊かさ」という言葉で表現できるかもしれません。学ぶことはこれをもたらしてくれます。

以前、私が東京の小平の栄町という町に住んでいた時に、アパートの下の階に住んでいたおじさんが(おそらく40後半か、50代くらいの方)と偶然話すようになりました。

「昔は画家になりたくて沢山絵を描いていたんだ。そして新聞にも取り上げられたんだよ。今はあまり描かなくなったけど、、だから君にこれをあげるよ、、」
といってご自身が昔使っていたキャンバスの木枠(8号~30号くらいの大きさ)を30個くらい一気にくださったのを覚えています。
初めて会ったのですが、、、そこから意気投合して、そこから度々話すようになりました。ちなみに、その木枠は年月が経って傷がついていたのですが、、私はその木枠を韓国にも持って行き、それに布を張って絵を描き、展示に出品し、、、と全て有意義に使わしていただきました。実は代表作のいくつかはその木枠で描いています。



絵を描く→どんな絵を描くかで苦悩する→人生に悩む、、、→ただ道に生えている桜の木は綺麗だ
なんてことは芸術家の苦悩=「ロマン」的なものとしてドキュメンタリーや映画としても描写されます。
ですが、現実は小説よりリアルなドラマが実際に起こったりします。
これは社会の中で「絵を描く行為」が意義ある行為として存在しているが故に、他の存在とも繋がるのです。
展示することは意味があるのか?
分かりやすい例が「展示をすること」です。
展示会で作品を発表することと鑑賞者が絵を見ることはアウトプット・インプットの典型です。
世の中で絵を描く人は、そんなに多くありません。
もちろん子供の頃は授業で絵を描いたりしますが
大人になるとドンドン減っていきます。
ですが、人々は平凡な日常に何か「面白いこと」「インスパイアリングなこと」を求めています。


休日どこに行くでしょうか?
旅行に行ったらどこに行きますか?と聞くと
美術館やギャラリーと答える方は多いです。
つまり人々はアート作品や絵画からくる「アウトプット」を求めているのです。何かのインスピレーションですね。
ここで、あなたが絵を描くのなら
あなたは作り手、見る側は受け取りてという
「コミュニティー」が形成されます。
絵描き仲間もコミュニティーですが
絵描きと鑑賞者もコミュニティーです。
作品を展示すると必ず誰かに影響を与えます。
比喩で言うなら、池に小石を投げると
波紋が広がるようなものです。
「私の絵なんてだれも興味ないよ~」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。
以前コロンビアにいるときに道端でコロンビアコーヒーを飲みながら、スマフォでこんな記事を読みました。↓
ー私がどのようにタバコをやめるようになったかー
私はタバコ中毒で長年人生に困っていた。
こんなブログを書いてだれの役に立つか分からないが、
私がタバコをためるために一歩一歩努力していたことをブログ記事として残そうと思う。
一人でも私のような誰かの役に立てれば嬉しい。
ちなみにそのブログにはコメントが複数来ていました。
人は皆、個性も考え違うし
バックグラウンドも違うので
同じ絵を描ける人はあなたの他にはいません
ですがあなたの経験や感じたことはアウトプットすることで必ずどこかの誰かにとってインプットになるはずです
つまり誰かの経験というのは、
何か意味があって、誰かの+のインプットになるためにそのような経験をしたのかもしれません。
少し話が飛びましたが
どの時代も「絵を描くという行為」がなくならなかったのは、そのような理由からではないかと考えます。
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