こんにちは、今日は「線を引くことの本質について」語っていきたいと思います。
デッサンでは、鉛筆で線を引き交差させて(クロスハッチング)描写するんですが、ではその「線を引くとは何か?」「世界とどのような関係があるか?」「美とどのような関係があるか?」について迫っていきたいと思います。
線を引くことの本質
ご存じかと思いますが、デッサンする場合、基本はクロスハッチングといって、線を交差させながら描いていいます。クロスハッチングはダ・ヴィンチ、ミケランジェロあたりから体系化されて、今ではデッサンの基本になる線の引き方として定着している概念です。

ではこの、「クロスハッチングの本質と世界との関係」とは何でしょうか?
これは、最低2方向からの線をクロスさせ面や明暗をつくりますが、代表されるのが、縦(Y軸)の線と横(X軸)の線になります。ところで縦の線だけ引いては面積が生じません。 面積は縦と横の線があって生じます。

四角形は縦と横の線があって生じますよね。縦の線だけではいくら引いても面も生まれませんし、形が生まれないのです。
「面積」という言葉は、「面が積み重なり広がりを持つ」という意味です。これがクロスハッチングの本質です。
絵を描き続けると良くわかるのですが、目に見える全ての現象は、単独で存在していません。
例えば光と影、明と暗、奥と手前などですね。すべての事象は相互関係の中で存在しています。

ある存在の形も様々な方向の線によって存在し、それを究極的にミニマル化し言い表したものが縦と横の線です。つまり形の本質は面であり、面の本質は線です。ですので線を引くということは最も本質な(事象におけるミニマルな)行為なのです。
子供はなぜ落書きをするのか?
小さい子供ってよく何も考えずに線を殴り書きしますよね?
この行為にはどんな意味があるのでしょうか?
先の観点から考えると
これは実は、、、
線を引いて「拡張している」のです。

線を引くことで面積が生じるように、
子供は自らの思いを、感情を、存在していることを、線を引くことで面積を持たせることで存在させようとし、存在を0から1へ、1から10へ拡張させようとしているのです。
これが「子供が落書きをする本当の理由」であると私は考えます。
線を引いて形作る=「造形」から始まり、自らを存在させようとしている行為、または自らの存在を認識しとうようとしている行為なのです。
このように考えると
線を引くことの本質は、形づくろうとすること、存在しようとすることにあるといえます。何故、鉛筆デッサンを造形的修練としてどこの国でも最初にするのか?
それは無意識的に人間は線を引く行為が芸術の本質であると分かっているからであると思います。
ちなみに、木炭デッサンや油絵になってくると線で描くというより面で描く性格が強くなってきますから、鉛筆デッサンが絵の修練の道具として発展したのは歴史のニーズに合っていますね。
美の本質とは?│絶対的ものと相対的なもの
では、、
思い気ままに線を引けば美しい絵が生まれるでしょうか?
こどもの落描きのようにがむしゃらに手を動かしていれば美しい絵がうまれるのでしょうか?
「生まれません!」
XY軸、またはいろいろな方向の線を引いて面積を作っているのに、、、
形を作っているのにそれが美しく見えるとは限らないですよね。
なんの計画もなく線を引いてもそれはカオスに見えるだけです(笑)

これはどういうことかというと
美には基準があるということができます。
言い換えると、人間はあらかじめ共通にもって生まれた美に対する共通の感性が存内在するということになります。

私は昨年バチカンのサンピエトロ寺院でルネサンス期の画家たちが描いた壁画や彫刻家の作った彫刻をみて、これは子供が数万の絵を描いたからと言っては絶対に生まれてこないと感じました。(子供の絵にはそれなりの良さがありますが)
また、古代ギリシャではこの世には美の基準があると、数学的にその比率を研究し、生まれてきたのがギリシャ彫刻です。

つまり、先の線による面積の広がりと形の形成は相対的なものなのですが、それが美として感じれるかは絶対的な法則や基準のようなものがあるということです。
ですがここでいう絶対的な基準とは
古典絵画のような凝り固まった構図のようなものではなく、なにか抽象的な美の法則のようなものを言い表しています。ようはそれがないとこの世界は何でありのカオスになってしまいますから。
ですがポイントは、
美を作り出すには、何か絶対的な基準または法則みたいなものと、相対的な形や面積の2つが必要になります。どちらか一つでも美というものを定義できないんですね。
つまり、線を引くという行為は、この2つを追求する本質的な行為であるといえます。
一番根源的であり、本質的な行為です。 そして人間が線の流れ、重なり、リズムをみて感動するのも、そこに先の本質が含まれているからだといえます。
美の基準を無視したポストモダニズム芸術
しかし、この「美の絶対的な基準や法則はない」としたムーブメントがあります。
これがポストモダニズ(Postmodernism)です。時代的には特に1960年代後半〜現代までその思想は美術界に影響を及ぼしています。
つまり2つのうち絶対的なものは排除し、相対的なものだけで世界を定義しようとした運動です。
これにより美の基準がなくなるわけですから、今まで醜とされていたものも美であるといい、これは芸術になりえないとされてきたものが芸術であると主張するようになりました。
相対的なものには人間の個性のように、
いろいろなパターンと多様性があるので、そこに新しい美と可能性を見出す面白さはあり、発展はあるのですが、
なんでもありになってくると世界はカオスにならざるを得ないのです。

これが「現代アートがよくわからない」理由でもあります。これをいいかえると「相対主義」といいます。

私が「これはアートであり芸術である」
と宣言することはできます。
トイレの芳香剤を美術館にもってきて
「これこそ芸術であり美である!」ということはできるのですが、、
あくまでそれは「私が宣言したもの」で、それが美として認定されるかは
結局は我々の生まれ持っている美の基準で測られてしまうのです。
香りはよさそうですけどね、、、、


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